2010/01/31

冷凍庫のある今では冬の保存食にも不自由しない

大地が雪で覆われている間は、畑仕事はお休みなのです。一昔前までは、出稼ぎに出たり、藁細工に精を出したりしていたようですが、今では特にやる事も無く、皆炬燵で昼寝等をしてのんびりと過ごしているのです。
雪の無い7か月間しっかり働き、雪のある5ヵ月間はたっぷりと休息をとる。質素ながら、なかなか羨ましい生活なのです。

2010/01/26

進化してゆく過程に興味があるのです

ヤマサの真空パックの醤油が気になったので買ってみて使っている。
これがなかなか良く出来ているのである。注ぎ口付近が肝。微細メッシュ状に圧着されたシール部を通り、薄いフィルム状の注ぎ口に達する。液体の張力を利用して空気の侵入が巧妙に防がれているのである。しかも液垂れを防ぐ嘴付き。
一ヶ月程使用したが、確かに醤油の味が劣化しない。この点はとにかく素晴らしい。ただし、容器が柔らかいので、量や勢いをコントロールすることが難しく、つい醤油を注ぎすぎたり、飛び散らしたりしてしまうのである。
まだまだ改善の余地はあるものの、革新的な液体容器である。決して、食卓を引き立てるような素敵な外観ではないので、主婦に支持されるかどうかは疑問だ。どうか売れ行きに係わらず、作り続けて欲しい。見かけに囚われず、一つの問題を見事に解決したデザインであるのだから。

2010/01/23

大人の男の遊び

ヨーロッパの公園で、爺さん達が大きな鉄球を転がして遊んでいる風景を見かけたことはないだろうか?その風景は、なんとも穏やかで、時を刻む速度が遅くなったような錯覚を与えてくれる。
近頃、この鉄球遊び(ペタンクというフランス生まれの球戯)が私の周囲で流行り始めている。ビー玉のようでありカーリングのようでもあるこの遊びは、暖かな昼下がりをのんびりと楽しむのに最高なのである。たらたらと歩いている、しょぼくれ具合が情緒深いのです。
日本では、ゲートボールなるスポーツが流行っているようですが、声を出したり、手を上げたり、小走りしたりと、あれは忙しくていけません。

2010/01/18

旨くて安全なパンを焼こう

日本の食パンってのは概して不味い。不味い食パンにマーガリン、ってのが日本の朝食風景として馴染んでしまった現状はとても残念である。
もちろん労を惜しまねば旨い食パンにもありつける。浅草にあるペリカンというパン屋の食パンは気に入っている。小洒落た舶来チェーン店でないところがいい。素朴な小麦の味に、腰の強い生地、が職人感たっぷりなのである。うどんや蕎麦に通じる美学を感じる。朝早起きして、初老の職人が気合十分で生地を捏ねている姿を頭に描いて食べると旨さも一際。(実際のところは未確認のまま)
ところで、日本で普及しているパン焼き窯の多くに、つい先頃までアスベストが使用されていたという話を聞いた。未だに多くのパン屋では、このアスベスト付きの窯が使われているのだそうだ。こわっ。

2010/01/15

子供のおやつではありません

カトレアという店のカレーパンを時々食べるのである。カレーパンの元祖と言われるだけあって、昭和初期の趣が残っていてなんとも味わい深い。
楕円形の形状、薄くてサクサクの皮、たっぷりと詰まったカレー。当時は、カツレツやクリームコロッケのような存在であったことが想像できる。クリームコロッケのクリームをカレーに置き換え、メンチカツ大の形状をキープする為に薄いパン生地で包んでから揚げた。きっとハイカラなメイン料理であったに違いない。
家に持ち帰ったカレーパンは、まずレンジで温めてから、オーブンで少し焼いて衣をサクサクに仕上げる。皿にのせて、ナイフとフォークで切り分け、ライス(バターライスなら尚良し)と共に食す。お好みでウスターソースと胡椒を少々。シャツを汚してはなりませんので、首元からはナプキンを下げて。飲み物はミルクティーを。

2010/01/13

中国の鰻より近所のどじょうを

今の子供達は、どじょうを捕まえて遊んだりするのだろうか?それ以前に、どじょうは、まだこの日本にちゃんと生息しているのだろうか?
幼いころ、泥まみれになって捕まえた、どじょうを用いて祖母が作ってくれた料理の衝撃が未だに忘れられない。鍋に水と豆腐、そして生きたどじょうを入れて火に掛ける。水が熱くなってくると、それまで呑気に泳いでいたどじょう達が慌てだし、熱さに耐えきれなくなって、まだ冷たい豆腐の中へ次々と潜り込むのです。全てのどじょうの姿が見えなくなったら、更にしばらく加熱し、味を調えます。四角い豆腐を取り出して包丁で切り分けると、綺麗にどじょうが埋め込まれたパテ(テリーヌ)のような料理が完成です。あの残忍な風景と、完成したどじょう豆腐の美しき姿、決して忘れられません。
先日、伊せき という店でどじょう料理を食した。泥臭いどじょうを強い味付けとたっぷりのネギで食べるどじょうの丸鍋。江戸情緒はたっぷりですが、決して旨い料理ではない。所詮、庶民が楽しむ為の鰻の代替品、もしくは身近な栄養源
だったのでしょう。
元来の庶民料理も、今では気取った店でしか食べることが出来なくなってしまったことは、とても残念なことです。皆さん、この夏は、どじょうを捕まえて家庭で調理しましょう!伝統料理を絶やしてはいけません。

2010/01/10

2466532の柱

靖国神社へ初詣(生まれて初めて訪れた)。
歴史認識はともかくとし、日本人として観るべき資料、知るべき情報が、生々しく保存されている。遊就館という展示施設を見学していたら、あっという間に日が暮れてしまっていた。
戦後生まれの私には想像もつかない程大きな意味を持つ聖域。
正月に見舞った半身不随の祖母は、歪んだ口で千人針の話をしてくれた。

2010/01/09

ブスカワイイ仏像

6日から7日にかけて、少林山の達磨市へ出かけた。七草の日に夜通し行われるの賑やかな門前市。あの張り子の達磨人形発祥の寺である。
愛嬌のある丸いフォルム。厳つい髭面。手足は無い。達磨人形は単なる験担ぎグッズを超越した、民芸品の趣がある。派手さを競う、熊手や羽子板等とは別次元にあるプロダクト。目の入っていない人形に片目を入れ、願を掛ける。願いの適った暁にもう一方の目を入れる。
自分の手で開眼させるというプロセスが興味深い。また、飢饉の際に、農家の副業として生活を支えたという、シンプルな木型を利用した簡単につくれる張り子人形である、という出生も良い。

2009/12/26

スキー場にBGMは要らない

待ちに待った雪です。真っ白な大地、澄んだ空気、小鳥のさえずり、がとても心地よいのです。
リフト降り場からは迅速に離れましょう、雑音(ガンガン鳴り響いている歌謡曲)が折角の自然環境音を台無しにしていますから。
でも、恥ずかしながらユーミンだけは許せてしまうのです。

2009/12/22

皆が自発的に枝打してくれる仕組み

注連縄(しめなわ)が完成したら、今度はお婆さんと一緒に松の枝を獲りに行きましょう。
12月の大安の日には、どの家も松を獲りに行きます。我々はちょいと出遅れてしまったので、枝ぶりの良い松はなかなか見つかりません。下方の枝から獲られてゆくので、背の届く範囲にはもうあまり枝が残っていません。それでも妥協せずに、枝が真っすぐ伸び、葉の豊富に茂った三階松を探します。だいぶ歩いて、納得のいく三階松を収穫。注連縄と会わせ、半紙、蜜柑、昆布、で飾って完成です。

2009/12/21

注連縄を作りながら一年を思う

そろそろ、正月飾りを用意しなくてはなりません。
縁起ものですから、必ず自らの手で作りたいものです。何処で誰が作ったか分からない飾りを買ってきたのでは、ご利益も疑わしいのです。
しかし、近年では材料となる藁の入手が困難になってきました。藁細工の需要がなくなったために、収穫の際にコンバインでそのまま刻んで田に鋤き込んでしまうのです。ですから、材料となる藁は収穫前に農家の方にお願いして、分けてもらいましょう。
注連縄(しめなわ)の作り方は、お爺さんに習いましょう。手のひらを使って、藁に撚りを掛けながら、縄状に仕上げてゆきます。注連縄は家によって様々な形や拘りがありますので、出来れば自分の家の伝統を継承しましょう。もし、伝統が途切れてしまっているようでしたら、自分流に新たな注連縄を創作してみても良いでしょう。ちょっとぐらい不格好だって構いません、自分の手でつくることが大切です。
ほんの一昔前まで、靴、帽子、コート、バスケット、ベビーベッド、、、様々なプロダクトが藁で作られていたことを思うと、文明の進化速度を実感します。

2009/12/14

屠殺・解体に目を背ける者に肉を食す資格は無い

近年、鹿を中心とした獣による農作物被害が深刻な状況となっている。人が大切に育てた食物を獣に横取りされてしまっては、死活問題なのである。過剰繁殖の陰には、天敵の減少による食物連鎖バランスの崩壊や、地球温暖化による動植物生息域の変化、等の理由があるのだろう。
動物を殺めることは、とても心が痛むことである。だが大切な農作物を奪われては自分が生きていけない。したがって、適正な有害鳥獣駆除は避けられないのである。適正な食物連鎖の再生。人間は食物連鎖の頂点に立つ責任を適正に全うしなくてはならない。
しかしながら、「適正」という判断は慎重に下したい。まず、本当に有害な鳥獣であること。次に、駆除した後の鳥獣は、責任を持って解体し、食し、最大限有効に活用すること。決してスポーツ感覚で楽しまないこと。決して商売を目的としないこと。
私は、10年以上肉を口にして来なかったが、近隣の獣達とは積極的に係わり、やむを得ず駆除された獣は食してゆきたいと思う。
*写真は裏山で見つけた、まだ柔らかい熊の糞。

2009/12/10

年の瀬の風景

表参道の街路樹イルミネーションが、11年ぶりに復活したらしい。面出薫氏が行ったあの巨大行燈はなんだったのでしょう?いくら能書をたれたって、木に電灯を飾りつけただけの伝統的イルミネーションの美しさには太刀打ちできなかった、作り手の自己満足。環境的視点で見たって、イベント期間が終わればただのゴミと化す大量の巨大行燈を作るより、元々そこにある木を利用したほうが遥かに優れている。
ところで、木へのダメージ、ゴミ問題等を理由に中止された街路樹イルミネーションが何故突然復活したのか?根本的には、何の問題解決もないままの復活はどうにも解せない。町内会の頑固オヤジが失脚したのか?森ビルが裏工作を施したのか?
HISは幾らのスポンサー料を払ったのか?
きっと、イルミネーションに釣られたカップル達で表参道は賑わうことでしょう。冬でも、灯には虫が集まるのですから

2009/12/06

国立ダイエット図書館

国立国会図書館の民主党本部側には、とても小さなく怪しげな入り口がある。僅か高さ1メートル強のこの入り口はいったい何処へ続くのだろう?国会?首相官邸?核シェルター?
永田町には、埋蔵金だけでなく、まだまだ色々な物事が埋められているのだろう。

2009/11/30

重いものは持ち上げずに転がせばいいんです

親友 アレックス リッチ から展覧会のインヴィテーションが届いた。今回は コンスタンチン グルチッチ がキュレーターを務める展覧会の会場やグラフィックのデザインを ヨルグ レニ(ヘクター) と共に手掛けたようだ。http://www.design-real.com/
ウェブをざっと流し見したところ、いわゆるグッドデザインキュレーション(正直、それほど面白みのないセレクション)なので、見せ方が肝だろう。一点だけ興味深いプロダクトがあった。水タンク。人々が頭の上に水瓶をのせて歩いているアフリカの風景は、近く失われることになるのだろう。社会問題の解決を目的とした正しきプロダクト。目新しい携帯や家電をデザインしてもてはやされている日本の人気デザイナー達とは大違い。残念ながら、近年デザイナーという肩書がどうも胡散臭く感じるようになってしまった。http://www.youtube.com/watch?v=HPCTscerVvI&feature=player_embedded

2009/11/27

牡蠣と柿は同じ季節に旨いので紛らわしいのです

牡蠣の季節ですね。
この時期には、銀座にある三州屋という定食屋の牡蠣フライを食べるのです。この店はなかなか良いのです。ランチ時の混雑は避けなくてはなりません。素朴な家庭料理を肴に一杯。おばちゃん達の素っ気無くかつ温かい接客がまたいいのです。あの客あしらいは、おそらく元ホステスなのではないかと睨んでいます。

2009/11/23

色を配さない空間はカラーで撮影してもモノクロ写真のようです

今年の秋は、100% DESIGN TOKYO 内の BLICKFANG ブースのデザインを担当しました。世界的な悪景気の影響で、来日出展クリエーターの数が激減し、規模も予算も大幅に縮小。
どの業界でも同じだと思うが、低予算の仕事というのは、非常に難しい。予算が少ない分、選択肢が狭まる。それを補う為に、様々な工夫や労力が必要とされる。反面、予算の豊富な仕事は楽だ。余計な心配なくベストな選択肢を取ればいい。
今年のブリックファングのブースは、全体を黒く覆って、クリエーターの等身大写真を壁面に配置しただけ。クリエーター自らがその場に立ち、作品のプレゼンテーションを行っている事。アマチュアによるフリーマーケットではなく、プロフェッショナルによるプレゼンテーションである事。この2点を静かに表現した空間。

2009/11/20

大きな鼠さんは、クリスマスキャロルという西洋物語を餌に子供達を狙っているようです

年の瀬の物語といえば、日本では「忠臣蔵」がお決まりです。ってことで、歌舞伎座へ「仮名手本忠臣蔵」を観に行ってきました。
実際の討ち入りのあったのは1701年、その2年後の1703年には既に物語として上演されたというのだから、この事件への注目度が当時より高かったことがうかがえる。その後、今日に至るまで300年以上に渡って、人気が衰えないのだから凄い。映画、小説、テレビドラマ、数え切れぬ程膨大な数の作品が繰り返し作られ、飽きられることなく人気を博してきた。この忠義美談は、日本人の国民性形成に大きく寄与してきたに違いない。

この「仮名手本忠臣蔵」、その名の通り登場人物はすべて仮名で演じられている。江戸幕府がこの実話の上演を禁じた為に、仮名を充てたのだという。当時の歌舞伎が、今日のように保守的な伝統芸能でなく、反体制的な姿勢を有した庶民の文化であった事がうかがえる。

2009/11/15

水族館って結構臭いんですね

天皇陛下御在位20年記念ということで葛西臨海水族園がこっそりと無料開放していたので訪れてみた。(どの動物園や美術館も、何故もっと盛大に告知して祝わないのか?)
谷口吉生という建築家による大仰な近代建築物の中に入ると、展示物は期待に反してしょぼい。水槽の水はどれも濁っているし、換気設備の故障なのか館内は何故かレストランの食べ物の臭いと餌糞の臭いとが入り混じって充満している
。大した工夫も、驚くような希少生物も、無い。唯一印象に残るのは旨そうなマグロが泳いでいたことぐらい。
ご立派な建物に、貧相なコンテンツ。あれじゃまるで、中身の空っぽな二枚目なのである。

2009/11/13

西郷隆盛は知らん顔でお散歩中

上野の森美術館へ「聖地チベット展」を観に出かけた。
中国による侵略によって大部分は、焼かれ、破壊され、盗まれた、という貴重なチベットの文化遺産が、この日本で観られるというのだから逃す手はない。展示されている仏像や仏画は、豊かな色と表情に溢れていて、とても人間らしい。俗っぽささえ感じるのだ。これは、チベット仏教が庶民に根付いている証だろう。お経を覚えていなくたって大丈夫。マニ車なる便利な道具を回せばお経を唱える代わりになるという。これなら子供だってグルグル回せる。中国を経由して日本へ伝わったお偉い仏教文化とは、大きな違いだ。
ところで、一部の人権活動家はこの展覧会に対し強い批難声明を発している。実はこの展覧会、中国が主催しているのだ。チベットを略奪した中国がである。この事実を知ると、確かに複雑な気持ちになる。しかし、これを機にチベット文化に触れ、その悲劇的な歴史を知る(会場では中国による侵略については一切触れられていないのだが)人々が多くいることは、決して悪いことではないと思うのである。

2009/11/09

埃の中から発掘された最先端デザイン

チェコのデザイナー、マキシム ヴェルチョフスキー と久しぶりの再会。
オーストリアの高級シャンデリアメーカー、ロブマイヤーの為に制作した近作はとても興味深い。クリスタルガラスを透過する光で都市の風景を浮かび上がらせるというもの。ロブマイヤーの倉庫を訪れ、雑然と積み上げられたガラスパーツの中から適した形状のパーツを一つ一つ選び出していったという。一つの風景を作り出すのに一週間、全四都市で約一か月を要したというのだから、根気のいる作業だ。完成した作品は実にお見事。ロンドン、ニューヨーク、モスクワ、メディナ、が幻影のように儚い姿を現していた。先日の100% DESIGN TOKYO 会場の片隅で、ロンドンの風景が密やかに展示されていた事に注意深い人は気づいただろう。つまらぬ商業デザインが溢れる中で、一際輝いていた。
倉庫で埃を被ったガラクタのようなパーツ達を、緻密に組み合わせ、巧妙に配置する。それだけで、全く新しい美と価値を創造する。不用意に新たな物を作り出すこと無しに。
チェコの民主化革命、ベルリンの壁崩壊、から20年(まだたった20年)、マキシムを筆頭とした新世代東欧デザイナーの活躍に注目期待したい。
http://designeast.eu/2008/11/09/maxim-velcovsky-studio-qubus-for-lobmeyr/

2009/11/07

殺され肉をえぐり取られた動物達

ガラスケースに収められた狐の死体、狸の死体、てんの死体、いたちの死体、死体、死体、、、。剥製にして飾られる為だけに捕えられ、殺され、肉をえぐり取られた動物達。
寿命を全うして死んだ動物を懐かしむ為につくられる剥製ならまだましだ。今年初めにはかつて上野動物園を賑わせた歴代パンダの死体(剥製)展なんて物凄い企画展もあったし、近年ではペットの猫や犬を剥製にする心優しい飼い主も多いようだ。レーニンや毛沢東も剥製になって国民を喜ばせている。

2009/11/02

仏は宙に浮いてなどいない、この地にしっかりと足をつけている

ダライラマ14世の講演を訪れた。
あの生き仏、ダライラマである。中国によるチベット侵略、大虐殺を生き延び、インドへと亡命したダライラマなのである。とても現実とは思い難い壮絶な運命を生きた本人が、我々と同じこの時代に生きていて、この東京で講演を行っているのである。この現実だけで十分に感慨深い。
客入りは予想に反して少なく、国技館客席の3分の1も埋まっていない。中途半端なアイドルにも及ばない集客力に愕然とさせられた。あのダライラマがこれ程人気が低いとは。
今回の講演は、他の出演者4人とのトーク形式のものであった為に、ダライラマの法談を満喫するには至らぬ消化不良の内容であった。しかし、ダライラマの人となり(天上の仏でなく)をこの目で垣間見れたことだけで、十分に有意義に思える。ダライラマの言葉は極めて科学的であり、人間的であり、現代的であり、現実的であり、理論的であり、常識的であった。決して宗教論を持ち出して煙に巻くことは無かった。
何よりもあの独特の笑いが忘れられない。生き仏の口から頻繁に飛び出す、皮肉交じりの冗談。講演の最後は共演者へのプレゼント授与で締めくくられたのだが(本来こんなことは控室で行ってほしいものだが)、そこで述べられた言葉はダライラマの現実感覚を象徴している。「白いスカーフをプレゼントします。感謝の意を込めてスカーフを贈るというのはインドの古い習慣です。しかしながらこのスカーフは中国で中国人(漢人)によってつくられたものです。イッヒヒヒヒ。そしてそこには中国人には読めない大切な言葉がチベット語で書かれているのです。イッヒヒヒヒヒヒヒ。」
ダライラマから政治的な発言は一言も無かった(許されていないのだろう)。オバマ大統領も鳩山首相も国家元首になった途端、ダライラマとの会談を控えた。両者とも経済大国中国を前にして、良心を押し殺した(オバマはノーベル平和賞を受賞する資格が無い事を自身で十分に認識しているだろう)。来日報道も僅かだけである。しかし、チベットでは今でも深刻な人権侵害が行われている。

http://www.youtube.com/watch?v=P5sWncFiYnA

2009/10/27

甘柿は渋柿に変わる

板長より故郷から届いたという西条柿のお裾分けをもらった。この種の柿は基本的には渋柿だそうだが、渋抜き(容易にできるのだろうか?)されたものは甘くてとても美味しいのである。日本の秋を満喫。
柿は私の大好物。来春より庭に旨い甘柿を植えようと思うのだが、これがちょっと難しい。関東以北(寒冷地)では、せっかくの甘柿樹種も渋柿に変わってしまうというのである。不思議である。聞くところによると、未熟の柿は甘柿でも皆渋く、成熟につれて渋みが抜けて甘くなるそうだ。寒冷地だと渋みが抜けるまでの成熟に至らないから渋柿になってしまうと。では収穫を遅らせれば甘くなるのか?収穫後、しばらく寝かせておけば甘くなるのか?温暖化が進めば甘くなるのか?寒冷地でも甘柿になる種は無いのか?渋柿を渋抜きした方が手っ取り早いのか?
もう少し調査が必要である。

2009/10/25

お役人さんに纏わるよくあるお話

久しぶりに日本科学未来館へ立ち寄ってミルクを一杯。
「我ながらこの空間は良くできている」と自画自賛。かれこれ7年も前の作品ながら、その普遍的なコンセプトはちっとも古ぼけていない。どんな空間なのかは、是非一度訪れてみて下さい。(運営サイドへはノータッチなので、味や価格については残念ながらお勧めは出来ない。)
そういえば、設計時に聞いたこぼれ話しがある。この空間は、もともと自販機コーナー。カフェを作るには自販機を撤去しなくてはならなかったのだが、これが非常に困難を極めた。物理的には、何の障害も無いはずなのだが。一体何が問題なのかと内部関係者に尋ねると、こっそりとその理由を教えてくれた。この科学館(公共施設)にある自販機は、全て政治家マターだという。自販機業者に対して、政治家が個別に利権を与えているというのだ。本当か?何はともあれ、この自販機問題は程なく政治的な解決をみて、このカフェスペース工事に着工出来たのであるが。

2009/10/19

クリスマスケーキの上のイチゴは贅沢なのか?

スルメ烏賊が大きく安くなってきたので、塩辛作り。
肝は外して塩に漬け、皮をむいた身は物干し場へ。肝、身、共に水気をしっかり抜くことが重要。一日置いたら両者を合わせて丁寧に混ぜ合わせる。酒、味醂、唐辛子、胡椒、柚子、で味付けするのが我が家流。5日間程かけてしっかりと味を馴染ませて完成。
こいつを肴に辛口の日本酒を頂くのが至福の時。締めは、炊きたての新米にのせて。
季節の幸をしっかりと頂くこと、食の基本であり、何よりの贅沢。
一方、スーパーでは季節外れのものほど、高値で売られている。高価な物ほど有難がる消費者に支えられているのだから不思議だ。



2009/10/17

仏に至る山

至仏山を登った。尾瀬ヶ原の西側に位置する山。鳩待から一旦山の鼻まで降り、尾瀬ヶ原をちょこっと横目に見ながら登山開始。登山は平日、オフシーズンに限る。蟻の行列のような登山には興味がない。
急斜面、緩斜面、岩場、木道、とバラエティーに富んだ登山コースは整備も行き届いていて気軽に楽しめる。眼下に広がる尾瀬の湿原、それを取り囲む紅葉で覆われた山々。日が射し、雲に覆われ、雨、あっという間に雲は流れ、また日が射す。
尾瀬にある山だけに環境保護活動が徹底しているのだが、どこにでもマナーの悪い人間はいるものだ。周囲の植物を保護する為に、山の鼻からの登山道は狭く設定されており、登りだけの一方通行規制。ところが、ここを下ってくる輩が時々いるのだ。出会った不届き者は全部で四組。老夫婦や家族連れ。親が子連れで規則違反、いったいどんな子に育つのでしょう?後ろめたさを抱いての登山、いったい何が楽しいのでしょう?
私にとっての登山は心を洗う場だ。自分以外に頼るものの無い状態で自然(人の手は入っているものの、多くの登山客が毎年遭難する程度には十分に雄大な自然が残されている)と向かい合う。そこでは、お金も地位も価値を失う。人間によって作り出された社会システムから解放される束の間。裸の自分と向かい合う時間。

2009/10/10

黒柳徹子とアグネスチャンは似て異なる

近年、日本ユニセフ協会から募金を募るダイレクトメールが頻繁に届くようになった。自らの意思でユニセフへの個人情報提供を行った覚えは無いのに。
この日本ユニセフ協会(看板娘アグネスチャンは、ユニセフ国内委員会大使)、年間180億円程の募金(非課税)を集めるという。その内、ユニセフ本部へと渡る募金は約80%。残り約20%(36億円)もの金額は活動費という名目で日本ユニセフ協会で使われているようだ。一方、ユニセフ国際親善大使である黒柳徹子の開設する個人口座への募金は、100%ユニセフ本部へ届けられるらしい。
その使用用途を明確に伝えずに、募金の呼びかけを行っている日本ユニセフ協会の姿勢には大いなる疑問を抱く。予期せぬ目的の為に、皆の良心の募金が使用されてしまうのだから。
ちなみに、2001年には、26億円(募金で集められた貴重なお金)を投じて高輪に「ユニセフハウス」なる立派なビルが建設された。これは募金者の意志に適うことなのだろうか?
有意義な募金を行う為には、知名度や謳い文句に流されることなく、信頼の出来る機関、自らの意志に適した機関、を慎重に選ばなくてはならない。

2009/10/05

中身があれば派手な衣装はいらない

ジェニーホルツァー の ネイチャーウォーク という作品を訪れた。
山の中に無造作に置かれた石達。苔が生え、落ち葉に埋もれ、完全に自然と一体化している。何も知らない人にとってはただの石ころ、意志をもって観る人にだけその作品は姿を現す。これぞ自然の中に設置するに相応しい作品である。表層的な形状に頼らず、言葉の力だけで語りかける。知的で奥ゆかしいホルツァー作品。
対照的に、草間弥生の昨今の屋外作品は、なんて下品で身勝手なのだろう。自然景観を台無しにして自己主張をする。あんな醜悪な作品が、各地に設置されていることを思うとゾッとする。さらに、その作品にしばしば税金が投じられていることを思うと気持ちは穏やかでない。この手の、セルフプロデュースに長けた、公共プロジェクト御用達(&代理店御用達)のアーティスト?を、有名だというだけで盲目的に有難がるのはやめましょう、お役人さん。

2009/10/01

象は亀を食べる

稲穂が頭を垂れ収穫の季節になると、冷たい秋風に田を追われたカメムシ達が人の家へと侵入してくるのです。
刺激を与えると強烈な悪臭(半日は臭いがとれない)を放つカメムシ。手でつかんでも、棒で突いても、その悪臭(パクチーに似て美味しそうな臭いだという変わり者もいるが)を逃れることは出来ない。
そんな厄介なカメムシの撃退法をタイプ別に3つご紹介しましょう。①都会派の皆様には、ガムテープ作戦がお勧めです。5センチ程の長さに切ったガムテープ(クラフト紙製)をカメムシの背中にペタリ。ガムテープ粘着面の中心で優しくカメムシを捕えます。カメムシは何が起きたのか分からず、臭いを出すのも忘れて戸惑います。そこを手早くガムテープを斜め半分に折り(美しい二等辺三角形のワンタン状が理想的です)にし、隙間の無いようカメムシを密閉します。これでOK。ゴミ箱へ。②カメムシ発生量の多いカントリー派の皆様には、小瓶作戦。栄養ドリンク等の蓋付き小瓶を用意します。カメムシに静かに近づき、手早く一気に瓶の口でカメムシを捕えます。カメムシが瓶の中に落ちるやいなや蓋を閉じ、臭いを封じ込めます。思い切りの良さが大切です。カメムシで瓶が一杯になった暁の達成感はなかなかのものです。③殺生は出来ぬという、心優しい友愛派の皆様には、天敵作戦です。ゾウムシを沢山捕獲し、ペットとして愛情を注いで飼育しましょう。まずは、餌を与えずに少しダイエットしてもらいます。ダイエットもそろそろきつそうだなという表情が見て取れたら、家の中に放ってあげましょう。体の軽くなったゾウムシは、家の中をゆっくりと(まさに象のように)歩き回り、じわじわと仕事をしてくれます。でも、その仕事ぶりは決して見てはいけません。そうこうしているうちに段々とカメムシが減ってゆくでしょう。もし、ミイラ化したカメムシが落ちていたら庭先に埋めて供養してあげましょう。