内田光子のソロコンサートに行ったつもりが、ヴィヴィアン・ハーグナーというヴァイオリニストとのデュオコンサートだったのです。
プログラムには4曲、モーツアルトK304、バルトークSz117、バッハBWV1001、ブラームスOP78、と記されている。一曲目のモーツアルトは内田がリードしながらの2人演奏。時折大きく足を広げて力強く鍵盤を叩く姿は、形式に囚われることなく、独自の音楽解釈を続ける内田らしくてイカシテます。ところが、1曲目が終わると内田がステージから降りてしまったのです。あれ?と思っているとヴァイオリンソロがスタート。これが結構良いのでOK。しかし3曲目のヴァイオリンソロでやや飽きる。結局、内田は最初の一曲だけだったのかと思っていたら、最後の曲になって嬉しい再登場。このブラームスも良い。
このコンサートは、チャリティーコンサートだったので、感違いがありながらも、大らかな気持ちなれるのです。演奏者2人もノーギャラでの出演ですから、文句なんて言えません。偉い!黄色いTシャツを着て涙を安売りしている偽善芸能人とは大違い。
今回使われたヴァイオリンは、サセルノという名のついた1717年製のストラディヴァリウス。300年前の楽器(プロダクト)が、未だに第一線の現場で使われているというのは、ものすごく稀有な例なのです。コレクションとして珍重されているプロダクトは多くありますが、現代においても最高の道具として活躍しているのですから驚きです。
現代技術は何故300年も前の名工アントニオ・ストラディヴァディを超えられないのだろう、道具は遙かに進歩しているはずなのに?人の手が道具の進歩以上に退化してしまったのか?木の状態が古ければ古い程良いということか?それとも、ブランド力に耳が騙されてしまうのか?
2010/11/20
2009/12/21
注連縄を作りながら一年を思う
縁起ものですから、必ず自らの手で作りたいものです。何処で誰が作ったか分からない飾りを買ってきたのでは、ご利益も疑わしいのです。
しかし、近年では材料となる藁の入手が困難になってきました。藁細工の需要がなくなったために、収穫の際にコンバインでそのまま刻んで田に鋤き込んでしまうのです。ですから、材料となる藁は収穫前に農家の方にお願いして、分けてもらいましょう。
注連縄(しめなわ)の作り方は、お爺さんに習いましょう。手のひらを使って、藁に撚りを掛けながら、縄状に仕上げてゆきます。注連縄は家によって様々な形や拘りがありますので、出来れば自分の家の伝統を継承しましょう。もし、伝統が途切れてしまっているようでしたら、自分流に新たな注連縄を創作してみても良いでしょう。ちょっとぐらい不格好だって構いません、自分の手でつくることが大切です。
ほんの一昔前まで、靴、帽子、コート、バスケット、ベビーベッド、、、様々なプロダクトが藁で作られていたことを思うと、文明の進化速度を実感します。
2009/09/28
歴史に耐え得る(ぼかすに価する)もの作り、もの選び、を大切にしたい
一般にネガティブに捉えられる要素を、ぼかすことによりポジティブに転換する。なんと繊細で前向きな方法論なのだろう。白髪頭じゃ爺さん丸出し、黒く染めては違和感ありすぎ、白髪ぼかしでチョイ悪オヤジ(*素敵な中年男性の意)ってことだ。カツラを捨てて禿げぼかし、ダイエットやめて肥満ぼかし、脱毛やめて無駄毛ぼかし、プチ整形やめて一重ぼかし、シークレットブーツを脱いで低背ぼかし、、、。素の自分を隠すのでなく、魅力的に見せる工夫を凝らすこと、それが大切だ。
身の回りのプロダクト、インテリア、建築、、、でも同様の発想が浸透するといい。古くなった、プロダクトを捨てるのでなく、インテリアを全面リフォームするのでなく、建物を壊すのでなく、少しだけ手を加えて(ぼかして)歴史を経た古いものならではの魅力を引き出す。そうありたいものだ。
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