2010/11/20

最新技術はなぜ、300年前の名工を越えられないのだろう?

内田光子のソロコンサートに行ったつもりが、ヴィヴィアン・ハーグナーというヴァイオリニストとのデュオコンサートだったのです。
プログラムには4曲、モーツアルトK304、バルトークSz117、バッハBWV1001、ブラームスOP78、と記されている。一曲目のモーツアルトは内田がリードしながらの2人演奏。時折大きく足を広げて力強く鍵盤を叩く姿は、形式に囚われることなく、独自の音楽解釈を続ける内田らしくてイカシテます。ところが、1曲目が終わると内田がステージから降りてしまったのです。あれ?と思っているとヴァイオリンソロがスタート。これが結構良いのでOK。しかし3曲目のヴァイオリンソロでやや飽きる。結局、内田は最初の一曲だけだったのかと思っていたら、最後の曲になって嬉しい再登場。このブラームスも良い。
このコンサートは、チャリティーコンサートだったので、感違いがありながらも、大らかな気持ちなれるのです。演奏者2人もノーギャラでの出演ですから、文句なんて言えません。偉い!黄色いTシャツを着て涙を安売りしている偽善芸能人とは大違い。
今回使われたヴァイオリンは、サセルノという名のついた1717年製のストラディヴァリウス。300年前の楽器(プロダクト)が、未だに第一線の現場で使われているというのは、ものすごく稀有な例なのです。コレクションとして珍重されているプロダクトは多くありますが、現代においても最高の道具として活躍しているのですから驚きです。
現代技術は何故300年も前の名工アントニオ・ストラディヴァディを超えられないのだろう、道具は遙かに進歩しているはずなのに?人の手が道具の進歩以上に退化してしまったのか?木の状態が古ければ古い程良いということか?それとも、ブランド力に耳が騙されてしまうのか?

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