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2010/12/14

現代音楽は何年でクラッシックになるのか?

今日はピエール・ロラン・エマールのコンサートへ。現代音楽の鍵盤弾きといえばこの人なのです。
プログラムには、バルトーク、リスト、メシアン、リスト、リスト、ラヴェルと並ぶ。どの曲も刺激的な演奏。中でもメシアンの「鳥のカタログ」は圧巻、さすが10代でメシアンコンクール優勝を果たしたメシアン弾きである。高く上げた椅子に浅く腰かけ、背筋を伸ばして、膝を閉じ、紳士然とした姿勢。しかし、手はまるで別の生き物。まさに鳥のように自由に、歩きまわり、走り、羽ばたき、飛び、さえずり、がなる。
最後にラヴェルの「鏡(全五曲)」の演奏でプログラムは終わったが、拍手は止まない。何度か出入りした後、クルターグ。嬉しい選曲。演奏が終わって、拍手に応えてまた何度かの出入りを繰り返した後、今度はバートウィスル。知らない曲ながら素晴らしい。2曲が終わって感謝の拍手。またまた出入りを繰り返した後、楽譜を持って再々々登場して、ブーレーズ。最高!一層の感謝の意を込めて拍手。さらに出入りを繰り返した後、まさかのベンジャミン。凄い!これでアンコール4曲。さすがに終わりか?もしかしてもう一回?と思いながら拍手。出入りを繰り返した後、なんとまた楽譜を持って登場。奇跡のメシアン。拍手拍手で手が痛くなる。また形式的な出入り。いい加減客席照明もつくだろうと思いきや、信じられないことに6曲目はカーター。さらに拍手&出入り。もう一曲来い!との願ったら叶って、7曲目にシェーンベルグ。大満足の大喝采。最後に大きなお辞儀をして、ついに照明が明るくなったのです。ブラボー!メルシー!
最高のコンサートであったのですが、客入りは7割程度。かなりの空席が目立ったのです。現代音楽を愛する人は予想以上に少ないようです。逆に言えば、大多数に支持される音楽は、その時点でもう既に現代音楽ではなく、ポップスまたはクラッシックなのでしょう。

2010/11/20

最新技術はなぜ、300年前の名工を越えられないのだろう?

内田光子のソロコンサートに行ったつもりが、ヴィヴィアン・ハーグナーというヴァイオリニストとのデュオコンサートだったのです。
プログラムには4曲、モーツアルトK304、バルトークSz117、バッハBWV1001、ブラームスOP78、と記されている。一曲目のモーツアルトは内田がリードしながらの2人演奏。時折大きく足を広げて力強く鍵盤を叩く姿は、形式に囚われることなく、独自の音楽解釈を続ける内田らしくてイカシテます。ところが、1曲目が終わると内田がステージから降りてしまったのです。あれ?と思っているとヴァイオリンソロがスタート。これが結構良いのでOK。しかし3曲目のヴァイオリンソロでやや飽きる。結局、内田は最初の一曲だけだったのかと思っていたら、最後の曲になって嬉しい再登場。このブラームスも良い。
このコンサートは、チャリティーコンサートだったので、感違いがありながらも、大らかな気持ちなれるのです。演奏者2人もノーギャラでの出演ですから、文句なんて言えません。偉い!黄色いTシャツを着て涙を安売りしている偽善芸能人とは大違い。
今回使われたヴァイオリンは、サセルノという名のついた1717年製のストラディヴァリウス。300年前の楽器(プロダクト)が、未だに第一線の現場で使われているというのは、ものすごく稀有な例なのです。コレクションとして珍重されているプロダクトは多くありますが、現代においても最高の道具として活躍しているのですから驚きです。
現代技術は何故300年も前の名工アントニオ・ストラディヴァディを超えられないのだろう、道具は遙かに進歩しているはずなのに?人の手が道具の進歩以上に退化してしまったのか?木の状態が古ければ古い程良いということか?それとも、ブランド力に耳が騙されてしまうのか?